中之島哲学広場参加者の自由なつぶやき、心まかせに、です。
最近気になったこと(ニューノーマルとボン・ジョヴィDo What you can♪)(2020年12月26日)
少し前ですが、サイクルショップのイベント募集に「ニューノーマルな方法で云々・・」と書いてあって、ニューノーマルってなんだろう?と、気になって調べてみました。
「ニューノーマル」という言葉は、もともとアメリカのエコノミストが言い出したもので、いままでなら異常な事態が日常的になってしまう状況を言うらしく、リーマンショック後の不況が常態である(一過性のものでなく元には戻らない)ことを訴えるために使われていたそうです。
もう一つ、これも最近ですが、ロックバンドのボン・ジョヴィが夏にリリースした「Do What you can」という曲が評判だとTV番組で知って遅ればせながら聞いてみました。今までしてきたことが出来ないのなら「今出来ることをしよう!(do What you can)」という歌詞で、ああそうだ!いつか誰かがこういうことを言い出すはずだった、こういうのを聞きたかった!と、とてもいいと思いました。
現在、テレビでは、連日、たいへんな状況が伝えられています。自分に出来ることは、病院の方々の負担が増えないよう感染しないでいることぐらいしかありませんが、とにかく年末年始は静かに過ごそうと思っております。
哲学広場も、ここのところオンライン例会が常態という状況になってきました。秋からハイデッガー「存在と時間」の購読をしております。大部で読み応えのあるテキストにしようということでチョイスされたものです。ワクチンがすべてを解決してくれるのか、やっぱり世の中が元どおりになることはないのかわからないのですが、コロナ禍の今どうするのか、オーバーに言うとどう生きるかというようなことを考えるのに、ハイデッガーはタイミングがよかったのかもしれません。
・・ところで、くだんのサイクルショップの「ニューノーマル」の一つは、自転車を漕ぐのもマスクをしたまま!というものなのですが、これも慣れればなんとかなりそうです。(50代 会社員)
言葉の力――政治と哲学
(2019年4月13日)
一人の大臣が更迭された。ある議員のパーティーで、その議員のことを「復興以上に大事」と持ち上げるスピーチをした。被災地関係者でなくても、これをとんでもない発言として批判するのは当然であるが、少し距離を置いて「哲学的」に考察してみたい。言葉というものを見直すいい機会になると思うからだ。
大災害からの「復興」は、多くの人や組織を巻き込む集合的な事業である。一議員とでは比較にならない。だから、「復興以上に議員が大事」というのは、ありえない命題だ。ただ、これは大げさな言い方(強意表現)と解釈できなくもない。思い出されるのは、かつてテロ事件が起こった時、当時の首相が「人命は地球より重い」と述べて、人質の命と引き換えに日本赤軍の服役囚を超法規的措置で釈放したことである。「人」の命が「地球」よりも重い!? 論理的に考えれば不当な価値比較だが、それくらい人命は大事だと主張して、超法規的措置を正当化したものであろう。それにしても、日本の政治家はなぜもっと論理の通った説明ができないのだろうと、当時から私は不満だった。
で、今回の「復興以上に大事」発言に戻ると、この大臣はもともと語彙力がなく、政策全般に知識も不十分で、しょっちゅう失言をしていた。いわゆる教養がない。でも、大臣にまで上り詰めたのだから、政治家としてそれなりの「力」はあったのだろう。知り合いの議員のパーティーに出て、不適切な強意表現でよいしょしてあげる付き合いの良さ。それは政治力の一部ではあるのだろう。それと拙い表現力が表裏一体になっている。
ところで、このように気持ちよくこき下ろしている私自身は、政治家にはなりたくてもなれない人間(哲学関係者)である。ふと顧みるのだが、学問をやって、いわゆる知識人であれば、言葉の力はあると言えるのだろうか。そこで思い出すのは、かつて東大の卒業式で「太った豚になるより、やせたソクラテスになれ」と訓示した(といわれる)総長のことである。この人は、哲学者ではないが、歴史に名を残すすぐれた経済学者だった。世上に流布したこの名文句も、「復興以上に大事」という迷文句とは違った意味で、言葉の力を示している。これも強意表現なのだ。ソクラテスはたぶんやせていなかった(がっちりしていたと想像される)。豚のイメージとのギャップが、たまたま受けた。東大の卒業生へのメッセージとしてはどうなのだろう。私腹を肥やすな、清廉であれということか。もしかして、この言葉を真に受けて官僚のキャリアを全うした人はいたのだろうか。(68歳、ボランティア)
アンチエイジング、健康寿命
(2019年3月2日)
いつまでも元気でいたい。健康寿命を延ばしていつまでも健康に。そしてPPK(ピンピンコロリ)とこの世を去る。これが多くの高齢者の望みです。私もそう思っていました。色々勉強して考えが変わりました。
老いることは自然なことです。抗なう事ではありません。健康でありたいですが無理をして延ばすものではないと思います。
アンチエイジング、健康寿命を延ばそうとする考えには、3つの問題があります。1つは「ガックリ」することです。人はやがて老いて死にます。いつかは不健康になります。健康寿命を強調する人は落ち込みが激しいです。2つは「蔑視や蔑み」の元になります。健康=良い、不健康=悪い、から、不健康な人は健康に向けて努力しない人との思いを持ちます。それが蔑視や蔑みに繋がります。3つ目は「迷惑を掛けます」。健康のまま、ある日突然死、本人はPPKで大満足でも、周りは大迷惑です。周りは覚悟を決めていません。後悔も悔しさも残ります。
人が老いるのは自然なことです。食事や風呂、排尿や排便のお世話になるのは自然なことで、恥ずかしい事ではありません。出来るだけ長く健康でいたいですが、老いを受け入れ楽しみたいです。長患いは嫌ですが、介護や介助を受けて、「ありがとう」と感謝しながら死にたいと思っています。健康長寿もいいですが拘り過ぎるのはどうかと思っています。(70代、目指せ好々爺ボチボチ好々爺)
かくれんぼ
(2018年6月23日)
子供たちが「まともな」かくれんぼをできなくなってきたと聞く。見つけてもらえないかと不安になり、見つかる前に自分から出て行く、あるいは複数で隠れる、と聞く。
ひとり狭い空間に息を潜めて縮こまり自らの姿を消しても必ず見つけてもらえる、その信頼が子供たちの間になくなっているのだろうか。
今、哲学広場ではルーマンの「信頼」を1章ずつ丁寧に読んでいる。
信頼をシステムと絡めて論じる、正直、とても難しい。
その中で、信頼の学習過程の基本的な前提は幼児期に作られると書かれてある。
確かに。無条件にその存在全てを受け止めてくれる家族や小さな集団の中で、信頼はその子にとって確かなものとして経験される。その積み重ねのなかにかくれんぼもあるのかなと思う。
「まともな」かくれんぼが成立しにくいとは、子供たちの世界で何が起こっているんだろうと感じる。
そして、人は親しい者とその生死の狭間でかくれんぼしている、老いて死を迎えた者と残された者もかくれんぼをしているのかもしれない、ふとそんなことを連想した。
隠れて姿を亡くした人を、生きている人間が再び探しだす、その様式が葬送文化としてある。
そんなイメージだろうか。
私が経験した仏教では、亡くなってしばらくは細かな行事が続く。哀しく無念な想いを置き去りにして行事は進んでいく。初七日、2七日、3七日、4七日、49日、百か日、月命日のお墓まいり〜。ただただ畳に座り読経を聴き、雑草を抜き墓に花を供える。 亡くなり姿を消したことだけに心が占領されていると、涙しかない。
それでも、かたわらに姿を亡くした人の想い出を語る他者がいて、行事として同じことを繰り返すなかで、亡くなった者は少しずつだけれど再び姿を現してくれる。「こんなこともあった、あんなこともあった」と過去を回想し、そして「今、ここにいたら何て言うかな、きっと笑ってるよ」と、今ここにも姿を見せてくれる。
そのうち、ひとりでいてもその人は姿を現してくれる。知らず知らずひとり話しかけていたり、愚痴をこぼしていたりする。
それは、隠れていた人を見いつけた!というかくれんぼに似ているな、と思う。
葬送文化はひとつの儀礼システムだ。
儀礼という決まりきった形式が、亡くなった人と残された者のとの間にかくれんぼを成立させる。
TVで葬儀費用を保障しますといった死亡保険のコマーシャルを目にするが、隠れる人が自らその費用の算段をする時代なのかと、その自己完結の覚悟に潔さも感じつつ少し寂しい気もする。
夕暮れ、西の空に下弦の三日月と、寄り添うように光る金星を見つけた。
薄あかるい空に「きれいやなあ」と、傍の父と思わず言葉が漏れる。
そして、少し寂しくなる。
母を亡くして1年と半年。月も金星も、そしてこの地球もそれぞれ固有の動きの中で生きている。こうして互いに美しい出会いをするけれど、明日にはもうお別れだ。
(50代、専業主婦)
桜
(2018年、4月8日)
前を歩いてらした老夫婦が写真を撮られている。
ご主人が奥さんを桜の下に立たせて、自身は少し膝をおり、奥さんと桜を何とか写真におさめようとされている。奥さんは妨げにならないかとまわりの通行人に気を使われながら、ご主人のリクエストに応えて立ち位置を変えられている。
女性ならある年齢を過ぎると写真に撮られることを躊躇する。
リアルな今の私を写真では見たくないな、と私も少し思う。
若いつもりでいても、写真は正直。皺も丸みを帯びた体もその全てがため息になる。
気合いでなんとか日々過ごしている私にカウンターパンチの1枚。
でも、こうして互いに十分に老いた連れ合いに桜の下で写真を撮ってもらうのも悪くないな、おふたりを見ていてそう感じた。
ここからは私の夢想。
いろいろあったけど今年もこうして桜の季節をふたりで迎えたね、来年もまたこうして迎えられるかどうかははわかんないね、今撮った写真は私の遺影にしてくれるのかな〜。夢想のなかで老いた連れ合いと言葉ではないそんな心のやりとりをしている。
桜は特別だ。
悲しみも喜びも、記憶も後悔も、過去も未来も、全てを一緒くたにして現前させる。そして、どうにもつかみどころのない心の動きは、あっという間に散ってしまう桜の花びらと共に姿を消す。
今年は老いた父と共にふたりで桜を愛でた。
「20年後もこうして桜みようね」
来年や再来年とは言えず、20年後。
桜は特別だ。
(50代、専業主婦)
「すそ上げ」
(2018年1月2日)
元旦からズボンの裾上げをした。
父のズボンを3センチほど短く。
昨夏、倒れた父はリハビリの施設で年を越した。
幸いにも大きな後遺症はなかったが、以前の気ままなひとり暮らしに戻るには今少しのリハビリが必要だ。
移動にも杖を必要とし、外出には誰かを伴わなければならなくなった。
お箸を使って食事をすること、着替えをひとりですることもなかなか思い通りにはいかない。
リハビリとはよくなること、元どおりになることと思っていたが、父と接しているとそのスピードはとてもゆっくり。
今の状態を維持することがリハビリかと感じたりもする。
老いた父のその姿を目にして切ないと感じてしまう私がたまにいる。
だが、なかなか思い通りに動かない身体にいちばんイライラしているのは父本人だと思う。
噛んで飲み込むことに時間がかかるじれったさに、お節を何度もむせたりする。
お雑煮のお餅は注意が必要だ。
ゆっくり少しずつ〜、そんなことを娘に言われることも、父にはストレスだろうと思う。
私はお裁縫は苦手だ。
ミシンはとっくに断捨離している。
好んで針や糸を手にすることはない。
父のズボンの裾が擦り切れていた。
床をひきずり擦り切れていた。
少し背が縮んだな。
針に糸を通し、ひと針ひと針、裾上げをする。
苦手も手伝って、時間が随分とゆっくり流れる。
糸をぐぐっと引っ張りヨレがないか確認しながら、縫っていく。
ひとり手先に集中する時間が、お正月も手伝っていつもとは違う清とした空間と時間を感じさせてくれる。
頭でばかりあれこれ考える無限ループから、いっとき解放される。
お裁縫もたまにはいいな、と気づかされる。
父の今年の抱負は「リハビリを頑張る」だ。
娘も孫も「頑張れ、頑張れ」と声かけした。
前を向いて、元にもどる、元気な自分を取り戻すリハビリを私たちはもちろん応援する。
その一方で、出来ないじれったさに少しの苦笑いができるゆるさが父にも生まれるといいなと思う。
もちろん、傍で見守る私にも!、だ。
(50代、専業主婦)
「自分らしさ」
(2017年、10月21日)
「自分らしさ」とは作り出していくものだ。
生涯をかけてペタペタと塗り固め、どっしりと、どこから眺めても隙なく納得のいく形に仕上げていく。
ときには非情な社会システムに翻弄され、思うような形にならず腐る気持ちにもなるけれど、そんな時こそまた、無心にペタペタを繰り返そう。
子育てをしながら、息子達に伝えてきた「自分らしさ」のエッセンス。そして、この、言わば確信的に暑苦しいメッセージは私自身をも励ましてきた。
「自分らしさ」とは澱のようなものだ。
泥ソースやたまり醤油のように、気づけば底に沈殿している。
求めて努力し獲得されたものでなく、時間とともに濃縮され底に溜まっている。
その味が好きとか嫌いとか、願っていた味だとかに関係なく、溜まっている。
濃縮されているので、他の調味料を足してもさして味は変わらない。
個性的で癖になる味。
両親の介護をしながら感じる「自分らしさ」のイメージ。
「自分らしさ」とは突然わからなくなる。
季節ごとに少しだけ好きな洋服を買い足す。
好みははっきりしている。
好きなテイスト、その時々の流行、我が身の小柄な体型を考慮して、よし、この秋はこれにしようと決める。
ただ、何年か毎に、全く好きな洋服がわからなくなる。
クローゼットにあるお気に入りだった洋服にも、店で試着した洋服にもピンとこず、装うことが楽しくない。
何が着たい?何が似合う?どんな風になりたい?、がさっぱりわからない。
「自分らしさ」がわからない。
次回の哲学広場では、「自分らしさ」について皆で話しあう。
例会がいつもそうであるように、各々が「その人らしい」その人ならではの発言をされるであろう。
でも「その人らしさ」「自分らしさ」って一体何だろう?
(50代、兼業主婦)
「ほんま、面倒くさいなあ〜」
(2017年9月18日)
息子を相手に話していると、時折「ほんま、面倒くさいなあ〜」とつぶやかれることがある。
「そもそも〜とか、お母さんが言い出すと話が面倒くさい」そうだ。
いやいや、ちゃかさんとちゃんと話をしようやと思うけど、確かに、と少し納得する私もいる。
くどい、とはちょっとニュアンスが違う。
意識的に本音を隠して建前で話している訳でもない。
よくよく彼を観察していると、この「面倒くさい」という表現は、友達にも当てはまるらしい。
目の前の話し相手や友を「面倒くさい」と表現することが、私には少し抵抗はあるけれど、その表現を支える感覚は少しわかる気もする。
そして、彼の表現を借りれば、私が私自身に、この「面倒くさいなあ〜」とダメ出ししたいときがある。
そんなことにこだわらずサクサク毎日をこなそうと思うが、なかなかすっきり割り切れない。
で、こだわってるそんなことのそもそもが何なのかすらも、そもそもわからなくなって、そもそもの堂々巡り〜。
煮詰まっていく感覚。
あー面倒くさい。
赤いものは赤い、楽しいことは楽しい、と言い切ってしまえばすっきりするのになあ。
いつからこの「面倒くさい」を自身が自身に背負っているのか、目の前の息子の年齢くらいからだろうか?
10代の彼が、いつか自身が自身に心の底から「面倒くさいなあ〜」とつぶやいたときは、「ようこそ、やっと来たか」と迎えてやろう。
そして、「面倒くさい」に蓋をせずさりとて足元をすくわれず、半ばそれを手なづけ折り合いをつけながら日々を存分に楽しむ図太さ、健やかさを身につけて欲しいなと思う。
(50代、専業主婦)
写真
(2017年、7月4日)
日本の梅雨時期を離れ、10日ほどドイツ・ライプツィヒを訪れた。
バッハゆかりの地で今年は宗教改革500年にもあたり、教会音楽が街のいたるところで演奏され、楽しい至福の時間を過ごすことができた。
ひとり旅でもスマホで写真を撮る。
撮り損ねても後で消せると思うから、同じような構図やちょっとしたことも写真に撮る。
私の目にとまった風景、10日で100枚ほどになった。
現像して簡易なアルバムに収めた。
パラパラめくる。
母が亡くなり、半年が経つ。
叔母と実家を片付けながら、残された多くの写真と出会う。
裁縫道具箱のボタンひとつひとつをきっちり整理していた母らしく、写真も整理されている。
幼い頃の母は白黒でいつもややかしこまって写り込んでいる。
結婚し私たち子供との家族写真は明るく動きのある昭和を彷彿とさせる。
最近は気ままにおひとり様限定のツアーに参加した写真や、丹精込めた庭の草花の写真を多く残してくれている。
そして、ひとり参加の旅の写真や庭の写真には母が写っているものは少ない。
今さらながらそのことに気づく。
子育て最中の写真は人が主役だ。
誕生日だ運動会だ入学式だといった出来事をその写真は想い出させる。
声まで聞こえてきそうな写真の数々。
写真が懐かしさをダイレクトに蘇らせる。
母が残してくれた晩年の写真。
子育てを終え、自分の時間を楽しんでいたと思う。
でも、その写真から私は確かな記憶としての声を聞くことはない。
ドイツで撮った私の写真も風景や建物や街並みが多い。
私には1枚1枚に思い入れがあり、語りたいことも沢山ある写真だけど、家人に見せてもどれも同じような写真にしかみえないんだろうな、と感じる。
楽しいなと思うその一瞬を閉じ込めた写真。
もしできることなら母が撮った晩年の写真を母と共にお茶でも飲みながら見たかったな。
(50代、専業主婦)
閉じ込め、落とし込み、開放する
(2017年4月15日)
この瞬間をなんとか言葉にしたいな、と思うときがある。
息子の高校卒業式、電車で見かけた片言を話す幼子、親しい者を亡くしたとき、大きな満月を見つけたとき、音のないリビングでひとりいるとき。
それは、人生の大きな節目の瞬間であったり、また逆に気づかなければ存在しない瞬間であったりする。
うれしいな、かわいいな、楽しいな、といったことばかりでなく、哀しいや寂しいにつながる何かを吐き出してしまわないと前に進めないとき、なんとか言葉にしたいなと思うことがある。
そんなとき、たまに短歌の形式を拝借する。
五七五七七いう窮屈な形式は、ダラダラと説明することを拒絶する。
5W1Hを全て短歌に盛り込むことはできない。
細かな具体的説明を拒絶する。
幾重にも言葉をその上に塗り固めていく散文と違い、短歌はひとつの言葉に表現したい何かを凝縮させる。
閉じ込めてしまう。
その言葉は抽象的なものではない。
箸置きや若ゴボウや背中やスニーカーといった具体的に手に馴染みのあるものが多い。
その言葉に私を落とし込み託してみる。
プロではないので31文字に閉じ込めた何かは、第3者の鑑賞に堪えるものではない。
??の31文字だろう。
それでも、私にとっては救いの31文字、喜びの31文字だったりする。
出来、不出来に関係なく、何かを吐き出し開放したと感じる。
言葉は不思議だ。
決して全てを表現してはくれないのに、その言葉に頼りけりをつけなければ前に進めない時がある。
言葉はやっかいだ。
今月の哲学広場はいつもと趣向を変え、皆で寺に集い座禅体験を楽しむ。
座禅!
初体験でとても楽しみ。
窮屈な型である座禅が、果たしてどんなところへ私を連れて行ってくれるのか?、楽しみたいと思う。
桜吹雪の今は毎年、岡本かの子のこの句が浮かぶ。
桜ばな いのち一ぱい咲くからに 生命(いのち)をかけてわが眺めたり (岡本かの子)
彼女の、自らもコントロールできなかったであろう奔放な生き方を、散る桜と共に眩しく想う。
(50代、専業主婦)
女が旅立つ時
(2017年4月2日)
1994年、54歳でイギリスに留学。2000年に帰国。この間、格安のチケットを手に入れて、年に数回の往復を繰り返す。この6年間の暮らしと研究の日々を綴ったのが、この春に出版した『イギリス絵本留学滞在記―現代絵本の源流ウォルター・クレインに魅せられて』(風間書房)。帰国してからも年月が流れており、いまや私は77歳。それでも書きたかったと思っている状況は変わってはいないと思い、出版できてほっとしています。それは、2000年に帰国した時、ほとんどの女性たちから即座に返された言葉、「ご主人のご理解があったから、留学できたのですね」です。21世紀にもなって思いもかけない反応に、当初絶句。「ご主人」が留学する時、誰が「奥様のご理解があったからできたのですね」と言うだろうか。一方、男性の反応の例はひとつ。ある日、東京方面の友人宅で食事。ご夫君(大学教員)も同席。私の留学の話が出た時、彼は即座につぶやいた。「許さん」。女性は、許されてしか旅立てないのだろうか。ここでも、先日の哲学カフェのテーマ「愛」について語ることができます。
(77歳女性 ほとんどボランティア)
「愛」についての哲学カフェを振り返って
(2017年3月31日)
この前、「愛」をテーマとする哲学カフェをやった。哲学カフェのむずかしさと、愛について語ることのむずかしさを感じた。愛の感情や行為は具体的なのに、愛という言葉は抽象的だ。その落差。
愛という言葉に引きずられたら、「愛を愛する」、空回りする人が出来上がる。強引に、「芸術は愛だ」と言い切ってみせる人もいた。言葉の用法としてはそれは誤りではない。それに納得する人が多ければ、「芸術は愛だ」という言い回しは日本語に定着することになる。厳密な意味は、だれも多分わからないまま。
そもそも、顔をしかめながら、愛について言葉を費やすのは、おかしいだろう。愛について愛のない仕方で語ることは、自己矛盾だ。愛というテーマを、愛にふさわしい「モード」で語りたいと思う。たとえば、ある母親が、とりとめのない息子や家族への思いを、とまどいながら語るとすれば、それが一つの「愛」といえないか?
(66歳、ボランティア)
「愛」という言葉のない生活
(2017年3月25日)
「愛」。
この1ヶ月間、愛という言葉をゆるく頭の片隅に置きながら過ごした。
次回の哲学広場のテーマが「愛」だから。
「愛」に関することなら、自由に何でも語り合える場が1ヶ月後にやってくる。
ちょっぴりワクワクするテーマ、そう感じていた。
しかし、だ。
この「愛」という言葉、たとえば食器を洗いながら、庭に水をやりながら、何度小さく呟いてみても、そこから何も出てこない。
本当に次の言葉が何も出てこない。
「愛」という言葉から何も浮かばない。
「愛かあ・・・」(・・・)
「愛」という言葉を使った歌や小説は耳にしたり目にする。
たとえば、西加奈子の小説は「愛」だらけだ。
「愛」という言葉は探せばまわりにたくさんあるんだろう。
ただ、私の中からは「愛」という言葉は出てこない。
長くつけている日記にも「愛」として何かを書き留めたことは記憶にない。
この「愛」という言葉から何も浮かばない私は、私にとってひとつの愉快な発見だった。
私は、「愛」という言葉を使わないんだ。
「愛」という言葉から何も紡ぎださない(紡ぎ出せない⁉︎)んだ。
何かひとつ言葉を与えられればその内容がつまらないものでも少々的外れでも何かは語ることができる、と私は思っている。
多分できると思う。
だけど、この「愛」という言葉の前では何も出てこない。
「愛」という言葉の前でがんじがらめ!
「愛」という言葉からなんのイマジネーションも湧かない。
「愛」という言葉を前にして固まっている私を発見した。
そう、「愛」という言葉で何かを確認する生活をしていない、ということだと思う。
日常のザワザワしたドキドキした何かを「愛」という言葉のクリップで留める習慣がないんだろう。
ただ、「愛」という言葉のない生活と、「愛」のない生活は違うと思う(思いたい!)。
この哲学広場は月1回の集まりで、メンバーとは月1回会うだけだ。
普段、メンバーがどんな仕事をして何を感じ考えているのか、お互いよくは知らない。
次回の集まりで皆からどんな「愛」が出てくるのか、そして何より私が「愛」という言葉に反応できるのか⁉︎、楽しみだ。
(50代、専業主婦)
読みきかせ
(2017年3月21日 )
先日、絵本展をゆっくり楽しむ機会があった。
展示されている絵本や原画のかずかずは、少し時代を遡った海外のものだったので、「あっこれ、子供と一緒に読んだなあ」という懐かしさを直接に想起させるものではなかったけれど、ゆったりした時間のなかに漂うとても気持ちのいい時間を過ごすことができた。
思い返せば、私の絵本との出会いはやはり子供たちが小さい頃、小学校にあがる前だ。
読み聞かせの講習会や絵本講演会にも参加した記憶がある。
公立の図書館にもずいぶんお世話になった。
絵本は子供たちを大人へ向かわせる。
「読んでぇ」と、まっすぐに向かってくる。
自ら選んで借りてきた絵本をもって膝の上に座る息子たちを、ときには「忙しいから後でね」「自分で読んでね」と、その機会を逃したことを今から振り返れば本当に本当にもったいないことをしたなあと思う。
小学校にあがってしまうと、宿題やら友達とのカードゲームやらビデオやら闘いごっこやらなんやらで、絵本の出番は減った。
その頃はそんなもんだろうという意識すらなく、こうして絵本を仲だちとした子供との関係は気づけば終わっていた。
絵本に限らないが気づけば終わっていた〜は、子育てをしていていつも感じる。
その時、その瞬間がかけがえのないものだということをいつも過去完了で気づく。
真っ只中の大変さをもう少し俯瞰して眺める余裕とゆとりをあの頃もっていたら、と悔やまれる。
私自身が子供の頃、絵本とどう出会ったのかは正直、記憶にない。
親の膝の上で読んでもらったとか、幼稚園の先生に読んでもらったとか、記憶にはない。
案外、そんなもんだろうと思う。
我が家の子供たちも記憶としては残っていないだろうなと思う。
子供時代にしてもらったことは、はっきりとした輪郭をもって記憶として刻まれることはないんだろうなと思う。
記憶は親に残る。
膝に感じた重さや子供の匂いや、何度も同じところを繰り返し読むことをせがまれた時のあの弛緩した時間感覚は、今でも実感としてある。
今では生意気なことばかり言う、ずいぶん遠いところにいってしまった息子たちに感謝しよう。
(50代 専業主婦)
ゆきあう時季
(2017年2月5日)
寒い日が続く。
寒さの底が続く。
まだまだ布団の恋しい朝が続く。
だが立春が過ぎ、暦のうえでは春が来た。
寒さの朝も起きだす時刻には明るさが戻ってきた。
寒さの実感と暦とのズレ、寒さの只中に暖かさをみる、寒さで動きを止めた全てを起動させる予感。
寒さのなかで冬の名残りと春の予感がゆきあっている。
過ぎてゆくものと来るものとか出会うゆきあう時季、今がそうだ。
ゆきあう〜過ぎた名残りとこれからの予感が漂うこと。
家族という場もそうだと思う。
親を看取り、そして子が生まれ育つ場。
姿を失くした者と新しく姿を現し生きていく者。
家族の有り様は、名残りと予感の気配を同時にもつ。
各々が自身のゆきあいの今を生きるように、家族という場もゆきあいの今を紡いでいる。
永遠に続く変わらぬ今はない。
家族も例外ではない。
だからこそ愛しい場でもあるのだろう。
今日は休日、家人が出はらった家に珍しくひとりとり残された。
がらんとしたリビングにもうすぐ皆が帰ってくるだろう。
(50代 専業主婦)
ドロドロのお雑煮
(2017年1月1日)
今年もお雑煮はドロドロだ。
里芋を下茹でせず、お餅についた片栗粉を叩かずになべに投入するからだ。これではわざわざとろみをつけてるようなもの。
20年ほど家族の雑煮を作ってきた。
下茹でし片栗粉を落とせば、ドロドロ感はかなり軽減される。
ただ、連れ合いが食べたいのはドロドロのお雑煮。
理由はシンプル、小さい頃から食べてきたから。
最初はかなり抵抗したが、ドロドロがうまい!という味覚には抗いようもなく、息子もこれが普通とドロドロのお雑煮を食べている。
母たちの作ってきたお雑煮はどうしてドロドロか。
今よりも大人数で集まり祝う正月に、そうそう手間をかけられなかったんじやないかと思う。
「お餅、何個食べんの?」と聞いて回り、「やっぱり1個増やしてや」と急な変更にも応じていたら、鍋はずっと火にかけられたまま、最初にいれた餅も半分溶けて形をなしていない。
ドロドロにならないはずがない。
味覚は記憶だと想う。
下茹でし片栗粉をはたき落とした正しいお雑煮は、記憶に負ける。
1年の始まりに、ずっと食べてきた雑煮の味を確認することでまた新しい年もつつがなく過ごせますように、そんな願いもこもっているんだろうと思う。
変化を好まず、今が永遠に続きますように〜、若い頃なら鼻で笑い蹴散らしていた凡庸さ。
このお正月は、沢木耕太郎の『旅の窓』をパラパラ読んでいる。
若い頃、彼の『深夜特急』を読み、行き当たりばったりの旅に本当に憧れた。
『旅の窓』は、そんな沢木がそれなりの年齢になって旅した先の何気ない日常の写真と短いエッセーが80編ほど。
家族でドロドロのお雑煮も悪くはないけれど、たとえばモロッコやスペインやカンボジアやアルゼンチンあたりでたったひとり、出会ったことのない謎のスープでお正月を迎えてみたい!〜そんな妄想も、元旦といういつもと違う時間がプレゼントしてくれた。
でも、本当に行きたいな。
(50代 専業主婦)
みほこさん、さて次は?
( 2016年11月6日)
みほこさん。
認めて褒めて肯定する、略して「みほこ」さん。
小学生の母となったとき、保護者向け講演会で知った言葉。
子育ての基本のき、というところだろうか。
以来15年、幼く無垢な笑顔の息子たちの写真とともに冷蔵庫のホワイトボードをずっと飾っている。
毎日、必ず目にするところに掲げていなければ、何度、感情を暴発させていたであろうか。
冷蔵庫前は意識して我が感情をクールダウンさせるための私のアジールだった。
認めず咎める、褒めずに叱る怒る、肯定せずに否定する、どれも親が子のためと思ってやらかしてしまう。
今から振り返れば、なんであんなに怒って叱ってダメダメとばかり言っていたんだろう。
今なら、例えばスーパーで駄々をこねて親に叱られている小ちゃな子供は、お母さんの怒る気持に十分共感しつつ、それでもなおとても愛おしく感じる。
そう感じるのも、きっともう子育ての大変な時期を過ぎてしまったからだろう。
さて、現在10代後半の息子たちに、みほこさんはもう役に立たない、と感じる。
認める、褒める、肯定するは、どれも親が子に、上から下にという関係で成り立っている。
今はもう、認めようが褒めようが肯定しようがしまいがほとんど耳に届いていない、と思う。
親がどう感じ何を思い何を言おうが頓着なく、自分のことで 精一杯。
僕は僕、俺は俺、といったところか。
これまで親の運転する車に乗っていた子が、気づけば自分で組み立てたスカスカいうエンジン音の車をなんとか運転しようとしている、そんな感じだろうか。
見ていてハラハラするけれど、どうしようもない。
車は自身で組み立てるしかないし、運転は運転することでしか身につかない。
作ろうとしている車のイメージも運転してどこへ行きたいのかも、今まで乗っていた親の車とは違うのだ。
そしていつか、その車に誰かを乗せることもあるかもしれない。
そんな息子達に、共に自身が自身のドライバーである者どうし、これまで見てきた景色や、事故った経験、コーナーリングのハンドルさばきのこつなど、上から下へではなく、サービスエリアでコーヒーでも飲みながらちょこっと会話する、そんな関係でありたいな、と今は思う。
なれるかな⁉︎
(50代、専業主婦)
犬のウンコ踏んじゃえ
(2016年10月23日)
たまに、怒りのトリガーを引いてしまう。
鼻息の荒い思春期の息子がいる主婦をしているので、自身で処理しきれないトラブルを持ち込まれるのだ。
ええ加減にせい!
よく話を聴いてあげそのうえで諭したりという良き母ステップを飛び越して、気づけばブチ切れている私がいる。
あー、やってしまった(≧∀≦)。
ブチ切れると、息子との普段の正常な関係に戻るには1週間はかかる。
口をきかないぎこちない状態に最初に根を上げるのはいつも私だとわかっている。
ついでに自身の体調も崩して、今回も3日ほど寝込む羽目になる。
「アイスクリームを買ってきたったで」
息子のこのひと言が今回の冷戦終結宣言となり、日常に戻った。
アンガーマネージメントの本に、いろいろ手を尽くしてそれでもどうしようもない怒りを感じたならば、小さな声で「犬のウンコ踏んじゃえ!」と呟いてそれで終わりにしよう、と書かれていた。
怒りのコントロールは難しい。
自身の怒りの癖を自覚すること、そういう状況に身を置かないこと、怒りそうになったら3秒数えること、相手を変えるより自身を変えることが早道、ノウハウはいろいろ合点のいくことだと思う。
それでもたまに、引いてしまうのが怒りの引き金。
犬のウンコ踏んじゃえは、小さないたずら心だ。
これが相手に大きなダメージを与えるものでは、唱えた私自身の心が壊れてしまう。
相手をちょっとだけ困らしてやろうぐらいで怒りをおさめる。
でも、10代の息子や年老いた両親が持ち込む厄介は、トラブル張本人が犬のウンコを踏んで終わりじゃないな〜と感じる。
踏むべき相手は社会全体かもしれない。
もちろん、私も含めて。
家族が本当に犬のウンコを踏んで帰ってきたら、その靴を洗うのは私だ。
(50代 専業主婦)
全部うそだったんだね、それで終わりか?
(2016年9月22日)
映画「FAKE」を観た。
あの現代のベートーベン・佐村河内守を、事件後一年間追い続けたドキュメンタリー映画だ。
あの事件はなんだったんだろう。
全部嘘だったんだね、それで納得、終わりか。
うそから生まれた交響曲「HIROSIMA」はもう聴くに値しないのか。
私も多分にもれず、NHKのドキュメンタリーをみてすごいなあと感動しそして騙されたとそのとき感じた多くの視聴者のひとりだ。
あの事件はなんだったんだろう、うそかほんとか〜答えがあるなら知りたいと思った。
この映画の前提は、監督が佐村河内を信じるというところから出発する。
それでいいと思う。
私たちは、その監督が撮った映像から何かを感じるだけだ。
見終わった。
なんとも、頭も心も宙ぶらりん。
耳は聞こえるのか、じゃあ聞こえるとはどういうことでどうして確かめるのか?
作曲は自身がしたのか、じゃあ曲をひとりで作るとはどう定義できるのか?
この映像は全てをとらえきれてきるのか、じゃあ佐村河内の全てとは一体何なのか、そんなものあるのか?信じていいのか?
全ての問いが答えを与えられず問いとして宙ぶらりんで帰ってくる。
あの事件に過敏に反応した我々の怒りは、何が真実なのか、何が正しく善きことなのか、何が美しいのか、という真・善・美をごちゃ混ぜにしたことも原因のひとつだと思う。
耳が聞こえない人の作る音楽の美しさを、その聞こえなさに求めたこと、障害=感動という社会の価値に無邪気に乗っかってしまったこと、それ故、騙されたと過剰に反応したんだろう。
今となってはそう思う。
うそかほんとか⁉︎
その答えは今はない。
ただひとつ、佐村河内さんは奥さんとこれからも生きていく、そして作品は残る〜映画をみてそのことを強く感じた。
ファーストネームで呼び合うふたりの日常はリアルにこれからもあのマンションで続く。
(50代 専業主婦)
ものを書いていた頃
(2016年8月23日)
退職してから、ものをほとんど書かなくなった。書く必要がない。といいつつ、中之島哲学広場のために、この文章を書いている。暑さに頭のねじがゆるんで、昔のこと、今のこと、順不同に思い出されてきた。
三十の声を聞くころ、大学の教員に採用されて、京都から博多に行った。大学院を出て2年間の就職浪人の後で、すでに二人の子どもをかかえていたので、ともかくありがたかった。それから三十余年、いわゆる研究業績を出し続けてきた。「研究業績表」を埋め、りちぎに更新してきた。それが研究者としてのパスポート?名刺代わり?と信じてのことだ。ちなみに、博士論文はどこにも提出していないので、私は博士ではないし、一生ならないだろう。
もちろん、専門の論文を書くことだけが「ものを書く」ことではない。一般向けの本は勧められ、求められて、何冊か出した。そう、産経新聞にコラムを連載したことも、いい勉強になった。担当の記者に赤を入れられて腹が立ったことは何度もある。しかし、読者にわかるように書くことは、基本的な心得だし、専門バカで満足しないためのきっかけになった。慰安婦問題で読者から痛罵のハガキを送りつけられ、血の気が引いたが、それなりに腹が座った。
ほんとうは、赤ん坊がにっと微笑むようにものを書きたい――といえば、呆れられるだろうか。ものを書くのは無垢な衝動とはいえない。むしろ、あれこれの計算・打算ごと、いろいろな決め事のうちにはめ込まれ、からめとられていく。それを「伝承のうちに立つ」という哲学者もいれば、インター・テクスチュアリティ(間テクスト性)と表現する記号論者もいる。
いずれにせよ、ひとは真に独力で、自由気ままに書き綴ることはできないということだ。そういった周囲からの圧力、決定力に反抗しても、その反抗そのものが、拡大された決め事のうちに回収されてしまう。
むかしのくせが出て、七面倒くさい文章になった。いまは、がんや難病の患者さん・家族の方を対象とした哲学カフェのために、進行役を務めている。医学系の倫理委員会のために、研究計画書を読み、病気や薬剤や機器についてできるだけ調べたうえで、質問やコメントを倫理委員会関係者のウェブ上にアップする。このように、今でも、「もの」は書いているのだ。
それと、「書く」のではないが、「描く」というか、郷里の山口県岩国市に帰ったあと、近隣で活動している若い人たちに誘われて、アート系のプロジェクトに参加している。目下のところ、小学校低学年を対象に、「おじさんを宇宙人にしちゃおう!」という企画が進んでおり、その「おじさん」の一人として登場する予定だ。どんなおじさん=宇宙人が出来上がるか、無責任にうきうきと興味がわく。これだって「もの書き」ではないか。そんな拡張された「もの書き」もあるのではないか。
そんなことを思いながら、うかうかと日を暮らしているこの頃だ。
(66歳ボランティア)
自然が決める人間の生きる価値
(2016年8月15日)
夏休み。
大人になって夏休みを存分に楽しませてもらったのは息子達が小さい頃だったなあと今、思う。
蝉取りに一日汗だくになり挙句におしっこをかけられ心の底から大笑いしたことなど、ジリジリした日差しも味方にして懐かしい想い出だ。
まだ息子が小学校低学年の頃、夏休みの自由研究で「人はなんのために生きるのか?」を大人にたずねてまわった夏があった。
おもろいこと聞くなあ〜と記憶に残っている。
まだまだ小さい子供相手だから、みんなのご飯を作るため、働いて家族を養うため、とだいだい似たような応え。
あるいは人の役に立つためとちょっとかしこまった応えもあった。
おじいちゃん(私の義父)は違った。「いのちあるかぎり生きる」と即答。
かっこええなあ〜と息子。
義父は大正生まれ。戦争で外地に赴くこともあった世代だ。
当時は80歳を超えていたと思う。
訪ねていけば、リビングでいつもにこにこ孫の相手をし、時折おばあちゃんに叱られても笑いとばしていた。
ただ何度か大病をし、遠出するのに車椅子も必要とし、寝込むことはなくとも一日の大半を食べて出して寝てといったことに留意しなければならない日々をすごしていた頃だと思う。
人はなんのために生きるのか?
生きるに値する生命とは何か?
これらの問いに思想や哲学をのせて答えを求めることはできる。
そして、その思考の果てに役割や使命や義務を頼りに「全ての人には生きるに値する価値がある」と答えを導き出すこともできるとも思う。
そこに一定の説得力はあると思う。
ただ、その答えに根っこはない、と思う。
今、もし義父が生きていれば百歳を超えている。
当時よりもっともっも「身体がえらい」と言いながら「なかなか死なれへんなあ〜」と言いながら、それでも「いのちあるかぎり生きる」を生きている、と思いたい。
人間の思考が決める価値とは根っこが違う価値、自然が決める価値とでも表現したくなる何か〜
老いていくとき、子供が発したナイーヴ(無邪気)な問いに、「いのちあるかぎり生きる」とナイーヴ(てらいなく素直)に応えるいのちを生きたいと思う。
(50代 専業主婦)
祝福することを祝福する
2016年8月5日
哲学広場で、ベイドソンの『精神の生態学』を読んでいる。
内容の理解はまだまだこれからだが、ラッセルの論理階型を援用し「学習することの学習」が、人が「健全に」生きるにはどうも大切らしい。
「〜することの〜」、同じ言葉を2回繰り返すこの言い回し、面白いなあと感じる。
喜ぶことを喜ぶ、悲しむことを悲しむ、面白がるを面白がる、妬むことを妬む〜どんどんイメージが膨らむ。
吉本ばななが、エッセイでつぎのように語っている。
『人生にはだれにもたいへんな時期と平和な時期があることを知り抜いた年齢にならないと、できないような交流があるかもしれない。「誰もが同じで、だからこそいまのあなたが妬ましい」というのではない。「だれもが同じだからこそ、それぞれの今を祝福して精一杯生きるしかない」ということを分かり合っているということだ。その祝福への気持ちがたいへんなときを乗り切るための貯金になる。』
たいへんな時期を共に過ごす者どうし、あるいは平和な時期を過ごす者がたいへんな時期を過ごす者に心を通わせることはそんなに難しくない、と思う。
だけど、たいへんな時期に平和な人を祝福することは今の私には正直、難しい。
そこにこれっぽっちもひっかかりや拘りがなければ、どんなに心が自由だろうと思う。
憧れる。
年齢を重ねれば、平和な時も永遠には続かないと心し、たいへんな時も底なしではないと頭の片隅で信じてもいる。
沈んだり浮かれたり、どっちもボチボチやと思う。
祝福することを祝福する〜、
私がたいへんな時に、平和な人を私のたいへんさからしか見ることができなくなったら、呪文のようにこの言葉〜祝福することを祝福する〜を唱えてみようかな。
(50代 専業主婦)
巡る時間と進む時間と、そして〜
2016年7月7日
もうずいぶん長く日記をつけている 。
5年日記帳なので、去年のあるいは一昨年の今日が、毎夜、目の前に現れる。
同じやなあ〜と思うことが多い。
桜が咲いた、蝉が鳴いた、梅雨入りだといった季節の移ろいは寸分たがわず同時期に巡ってくる。
そして、風邪をひいた、ウキウキするといったことも、不思議と同時期に巡ってくる。
毎年大して変わらん生活や〜と思う。
一方で、昨日、一昨日のページを繰れば、日々は確かに更新されている。
日記は、年が改まったときに今年の目標を定め(中高生みたいだ)、一年かけて途中経過を書き残していく作業帳でもある。
ちょっぴりでも前に進めば、書き記す。
進まなければ言い訳を書き記す。
今日の私は昨日の私と違うことを確認する、ささやかな毎夜の儀式。
そしてもうひとつ、全く違った時間が忽然とやってくる瞬間がある、と思う。
巡る時間でも進む時間でもない、断絶する時間。
昨日まで感じていたこと思っていたことが色褪せてみえる私、昨日には決して戻れないと感じる私〜私を瞬時に変えてしまう時間がある。
今日、新幹線で大阪〜東京を往復した。
大学時代の恩師の告別式に列席した。
いろんなことが想い出され、その想いを言葉で日記に記すことができるにはまだ少し時間がかかりそうだ。
ただ、私は今日、断絶する時間を経験してしまったと思う。
自然がもたらしてくれる巡る時間、私が意志をもって進ませる時間、そして断絶する時間。
私たちが感じている時の流れは、このみっつの時間が絡み織り合わさっている。
断絶する時間は、自然でも私自身でもない言わば他者が突然もたらしてくれる。
恩師の死は哀しい。
だが、今日という1日は、本当に久しぶりに再会した友と語り学生時代のあの頃を蘇らせた。
そして、今日という1日は、蘇らせたあの頃から今の私を照らし返した。
生き方のギアをもう一段上げろという声とともに〜
声の主はきっと恩師だ。
恩師からの最後のプレゼントだ。
(50代 専業主婦)
「老い」について哲学広場で語ること
2016年7月5日
先日の中之島哲学広場で、老いについて発表する機会をいただいた。
参考文献なしの発表なので、語ったと言うほうが正しい。
日常でも老いを語りあう機会は増えた。
私の世代では老いは親世代の介護との関わりのなかに、あるいは歳を重ねる私の先にある。
子育てが終わりに近づき、気づけば両親や我が老いがヒタヒタ背後からやってくる。
介護に対する悩みや具体的なノウハウ、女は最期はひとりやろうか?といったぶっちゃけ会話は気心の知れた友とするのが一番だ。
互いの日常や心のクセを理解しているので、おのずと互いが互いの心を、明日から健やかに生活できる場所までなんとか引き戻してくれる。
無理せんとがんばりや〜、こんなありふれた別れ際の声かけも心に響く。
ならば何故、私は哲学広場で老いを語りたかったのか?
何を期待したのか?
老いは、思いのほかスピードを増してやってくる、
老いについて考えるぬくより速く老いに向き合わねばならない、それが今の実感だ。
そんな日常のなかで、少し止まっていつもと違うところから考えてみたかった。
少し甘えたことを言えば、フルマラソンの途中でちょっと休ませてもらって、バナナの一本も補給したかった。
表現を変えれば、老いを考えぬくための思考の根拠、人は老いても生きてるそのこと自体が尊いのだ!という老いの存在の積極的な根拠を見つけたかった〜と言えるだろうか。
哲学広場に、心に響くがんばりや!も、どんな救いもないことは重々承知だ。
さらに言えば、求めようとした根拠も今の私の日常ではリアルではない、と感じる。
まだまだ、マラソンは続く。
ただ今回食べたバナナは、後々効いてくる⁉︎かもしれない。
(50代 専業主婦)
「読むこと」と「書くこと」
2016年6月6日
哲学広場に参加することは、まずテキストを読むことから始まる。
普段読む小説やエッセイと違い、歯ごたえのある文章と向き合う。
言葉のひとつひとつにつまずいていては前に進まない。
とにかく最後まで目を通す。
ぼんやりと何が書いてあるか見当をつけたら、次は気になるところや引っかかるところに線を引いて思いつくままに言葉や感想をラフに書き込んでいく。
その過程で何か一本、考えの筋らしきものが見えればしめたものだが、なかなかそこまでいかない。
前回のヘーゲル「精神現象学」では詳細な解説をチューター役の先生から事前にご用意いただいても皆目わからんわからんの連続。
わからんことが面白い!と半ば開き直ることでなんとか最後まで辿り着いた〜そんな感じだ。
そして、哲学広場ではたまにテキストのレジュメをきる機会をいただいたり、あるいは自らの興味に従って自由に発表するチャンスをいただく。
「読むこと」から「書くこと」へ移る。
書くという作業は面白いと思う。
所詮は私の頭の中で理解したもの、考えた以上のものは書けないのだから、わからんわからんと格闘することはない。
頭の中をそのまま表現すればそれでいい。
なのに、なぜかここでもすんなりとはいかない。
頭の中が言葉になってすんなり出てこない、そこに確かにあるのに言葉が見つからない、何がしかの言葉を見つけてもいやいや違うと感じてしまう。
作業としては四苦八苦なのだが、私はこの四苦八苦が案外好きだ。
存分に頭の中を言葉で置き換えることはできなくとも、その過程が楽しい。
頭の中と言葉の隙間に何か不思議なものを感じる。出来上がったレジュメは隙間を埋めるものではないけれど、私にはその隙間がとても大切に思える。
隙間をぼんやり抱いて、また次の書くチャンスまで読むことをしよう、そう思う。
(50代 専業主婦)
ヘーゲルの活かし方
2016年5月9日
夕食時、高校の授業で行われたディベートの様子を息子が嬉々として報告してくれる。
今日のテーマは代理出産。
ディベートは自らの心情に関係なく是と非に強制的に分けられ、論理一貫性で相手を論破できるかの一種の言語ゲームだ。
与えられるテーマは微妙でナイーヴ、是非を即答できる類いのものではない。
言葉にする以前に深く沈静し感じるテーマだ、と私は思う。
「相手を論破するテーマではないし、そんなふうに嬉しそうに話す姿は不愉快だ」
母親としてはいささか導火線の短い感想を述べると、これは役割が与えられたゲームでありあくまで論理的かどうかが問題なのだと至極真っ当な反論を頂戴した。
前回の哲学広場は一年あまり学んできたヘーゲルを振り返ると題してメンバーで自由に意見を述べあった。
メンバーのおひとりが、弁証法に関して「仕事や日常の場面であえて反対の意見をぶつけてみることで、得るものも案外あるのではないか」と述べられた。
ディベートはあくまで論理の「正しさ」を競う。
ディベートの「正しさ」から得られる結論(勝ち負け)は、テーマのもつ微妙でナイーヴな一筋縄ではいかない複雑さ対して正しいあるべき判断をもたらすものではないだろう。
正しさや真理にまっすぐつながっていないと思う。
ただ、あえて反対の立場をに立つことで私の心情から少し自由になり、自らが少しずれてそこから気付かされることもあるかもしれない、哲学広場メンバーの発言を聞いて思った。
たとえば、ディベートで自らの心情とは反対の役割を与えられたとしたら〜。
あえて反対の役割を演ずるなかで自らの心情の寄って立つ足場が対象化されることがあるかもしれない。
なりきった役割の意見にも自らの心情が一定の理解を示すことがあるかもしれない。
「まあ、あんまり意味ないけどな〜」とは、息子のディベートをしての素朴な感想。
論破して勝ったことは「あんまり」意味がない。
テーマのもつ複雑さに対して論破することには意味がないとしても、ディベートの過程で心情と役割が相反する形で絡みあい、自身が少しはズレて気づくことがあったのか、「あんまり」という表現を聞いて、そうであってほしいと思う。
(50代 専業主婦)
「乗り切ってください」、そして「健やかに」
2016年4月24日
私の朝は朝食とお弁当作りから始まる。
そのときの楽しみのひとつは古楽(バッハ以前の主に宗教音楽)をラジオで聴くことだ。
毎週ナビゲーターが変わりその解説を聞き、古楽を聴き、朝を気持ちよくスタートさせる。
番組の終りにナビゲーターが「今日も〜に一日をお過ごしください」と締めくくる。
「〜」には「元気に」、「素敵に」と様々な表現があり個性がでるが、私は「健やかに」が好きだ。
早朝の音楽番組を聴く人は年輩の方も多いだろう。
入院中の人がイヤホンで聴いていたりすると思う。
「元気に」、「素敵に」、「楽しく」、といった言葉を受けとることがしんどい時もあると思う(私もたまにある)。
「健やかに」には、ひとりひとりが無理せず今日を過ごしてください、と柔らかい響きがあって好きだ。
今回、熊本で最初の大きな揺れがあったあと、続震の緊急速報が何度もラジオから流れた。
こんなに続くのか、伝えるほうも聞くほうも起こっているこの事実についていけない。
そして、揺れが起こった時間、場所、大きさ、注意点、といった事実のアナウンスのあとに、「被災された方、どうぞ今を乗り切ってください」と流れた。
「乗り切ってください」
柔らかくも優しくもないかもしれないけれど、私には響いてくる言葉だった。
(50代 専業主婦)
「締め切りのない問い」 2016年4月7日
著名な社会学者が本名以外にもうひとつペンネームをもつ理由を問われ、締め切りのない仕事、好きなことをやりたくなったから、と答えている。
締め切りのある仕事は日常に似ている。
一定の条件のもと折り合いをつけてこなしていく。
そして昨日より少し前に進めばよし、終わりなきその繰り返し。
一方で締め切りのない仕事がある。
人とは何か、真理とは何か、時間とは何か、社会とは何か、しあわせとは何か〜究極の問いがある。
この問いに人はいつでもひらかれてはいるけれど、なんとなくやりすごす(それが日常だ)。
ただこの究極の問いの種子はひょんなところで顔を出す。
桜が咲いた、ピカピカの1年生を見かけた、筍ご飯を食べた、家人の背中が丸くなった〜一瞬の日常の中に紛れ込んでやってくる。
人はこの締め切りのない究極の問いの種子を抱いて生きている、と思う。
問いの先にはその人が願うしあわせがあっていいと思う。
そしてこの種子が日常を支えもし、ずらしもする。
月一回の哲学広場は、この締め切りのない問いにゆる〜く締め切りを課す。
意志をもって種子を育てる4時間だ。
(50代 専業主婦)
「明日の玉子はあったっけ?」 2016年3月19日
哲学が難しいのではなく、言葉をつかみ損ねている。
これが中之島哲学広場に2年ほど参加した正直な感想。
哲学用語は難解だ(本当に!)。
知識のあるなしは理解を大きく左右する(と思う)。
でも、知識を専ら学びたくて参加しているわけではない。
私の日常と、哲学広場での学びを結びつける私の言葉を私は探している。
たとえば、
ヘーゲルは強いのか弱いのか?
漠然と問いを立ててみる。
自己を高いところへゴリゴリと追い込み開放しようと目論む思考は、強いのか弱いのか?
強さも弱さも日常の言葉だ。
日々の生活にどっぷり浸かったセンチメントな言葉をあえて哲学にぶつけてみる。
強い思考の根源に人の弱さを置いてみたらどうだろうか。
そして、強いと弱いにこだわってヘーゲルを読んでいると、強いとは何か弱いとは何かということがわからなくなる。
私の頭と心を総動員して、強さ弱さとは違う言葉を見つけたい。
情けなさ、優しさならどうだろうか。
ピッタリはまらない。
言葉をつかみ損ねている。
つかみたい言葉は、私の日常から少し浮いていて哲学からはおそらく相手にされない言葉だと思う。
しかし、日常を一生懸命生きているだけでは見つけられない言葉だと思う。
少しだけふだんの私の立ち位置をずらすこと、そのためにヘーゲルにベタな日常の言葉をぶつけてみる。
言葉をつかむために。
哲学広場の帰りはよく玉子を買う。
「明日の玉子はあったっけ?」は私の日常のリアルだ。
玉子のリアルを手放さず、哲学したい!
(50代 専業主婦 )